絵の中に人を描かないわけ

絵の中に人を描かないわけ

公開
私の作品には、人が描かれていないものが多くあります。 もちろん、すべての作品に人を描かないわけではありません。 けれど、気づけば私は、静かな街やカフェ、テラス、庭、海辺など、 人の姿がない風景を多くつくっていました。 そこには誰もいない。 なのに、なぜか「誰かがいるような気がする」。 そんな作品が好きです。 テーブルの上に置かれた一杯の飲み物。 静かに灯る窓の明かり。 誰かを待っているような椅子。 夜のテラスや、小さなカフェの灯り。 人の姿は見えなくても、そこには確かに誰かが過ごしていたような気配がある。 そして見る人が、その空いている場所に自分自身を重ねることができる。 そんな余白を、私は大切にしています。 人がいないからこそ、自分がそこに入れる もし作品の中に、誰かが座っていたら。 その人は何をしているのだろう。 どんな気持ちなのだろう。 見る人は、その人物の物語を眺めることになります。 それも、もちろん素敵なことです。 でも、人がいないことで生まれる感覚もあります。 空いている椅子を見て、 「ここに座ってみたい」 と思う。 静かなテラスを見て、 「ここで夜空を眺めてみたい」 と思う。 誰もいない海辺を見て、 「少しここで過ごしていたい」 と思う。 人の姿がないからこそ、その世界の中に自分自身が入っていける。 私は、その没入感を大切にしています。 作品を見る人が、ただ外側から景色を眺めるのではなく、 まるで自分がその場所にいるように感じられること。 風の音を想像したり。 夜の空気を感じたり。 そこに座って、ゆっくり飲み物を飲んでいる自分を思い浮かべたり。 作品の中に答えを用意するのではなく、見る人が自由にその世界へ入り込めるようにしたいのです。 「誰もいない」けれど、「誰かがいる」 人のいない風景には、不思議な温度があります。 誰もいないはずなのに、冷たく感じない。 むしろ、 「さっきまで誰かがここにいたのかもしれない」 「これから誰かがここへやってくるのかもしれない」 そんな気配を感じることがあります。 私は、その見えない存在を想像する余白が好きです。 人を直接表現しなくても、その人の気配を感じることはできる。 一脚の椅子。 テーブルの上のカップ。 窓からこぼれるあたたかな光。 少し開いた扉。 そうした小さなものがあるだけで、その場所に流れていた時間や、誰かの存在を想像することができます。 作品の中にいるのは、描かれた誰かではありません。 もしかすると、 作品を見ているあなた自身なのかもしれません。 そこに居られるための余白 以前、「そこに居られる絵」という考え方について書きました。 私が作品を通して届けたいのは、忙しい毎日の中で、ほんの少し立ち止まる時間です。 だからこそ、作品の中には、見る人が入れる場所を残しておきたいと思っています。 誰かの物語を眺めるのではなく、 自分自身の時間を過ごせる場所。 その日の気持ちによって、 少し寂しく感じる日もあれば、 静かで心地よく感じる日もある。 同じ作品でも、見る人によって、そして見る日によって、違う景色になる。 そんな作品でありたいと思っています。 人がいないからこそ、 そこにいるのは、見る人自身。 作品の外から眺めるだけではなく、 ほんの少しだけ、その世界の中へ入っていく。 そして、何も考えずに過ごす。 私が人の姿を描かない作品が多いのは、 そんな時間をつくりたいからなのかもしれません。 見る人のために、ひとつ席を空けておく 私の作品にある、空いた椅子や静かなテラス。 そこには、誰かのための席があるのかもしれません。 でも、その「誰か」は決まっていません。 今日、その作品を眺めている人。 少し疲れて立ち止まりたい人。 静かな時間を過ごしたい人。 その人が自由に座れるように、 私は作品の中に、ひとつ席を空けておきたい。 人がいないけれど、人がいる感じがする。 そして、 見る人自身が、その世界の中に居られる。 これからも、そんな余白を大切にしながら、 誰かがそっと入り込みたくなるような世界を、表現し続けていきたいと思っています。

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青と光を紡ぐ幻想風景アーティスト

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