「たとえ老いても、私たちは美しいものを創ることができる。」
僕が老いや死について真剣に向き合うようになったのは 二十四歳のときだった。その年 身内が立て続けに亡くなった。死の淵にいる人をすぐそばで見たのは それがはじめてだった。
それまで僕にとって「死ぬ」ということは 映画やテレビの中だけの出来事だった。
それが突然 現実として目の前にあらわれた。
僕はまるで強くビンタをされたみたいに衝撃を受けた。
夢の中から現実に引き戻されたような感覚だった。
それ以来 死という存在が 頭の片隅にずっと居座るようになった。
見えていなかっただけで 老いや死は最初から身近にあったのかもしれない。
ふとした瞬間に「死ぬってどういうことだろう」「老いるってなんだろう」と考えてしまうよになった。
老いや死に もし救いがあるとしたら それはなんだろう。
向き合えば向き合うほど、その問いの先に広がっていたのは深くて終わりのない闇だった。
僕はいまでも その現実をすべて受け入れられているわけじゃない。
だけど絶望の裏側には小さな希望が静かに息をひそめている気がする。まるで月が太陽の光を受けて輝くようにひっそりと。
「人は老いて 死にゆくことでしか 得られない優しさと幸福がある」
死という終わりがあるからこそ人の優しさは深まっていくのかもしれない
。老いを悟ったとき、人は同時に「弱さ」も抱えることになる。でもその弱さを受け入れることができれば、他人の痛みを想像してそっと寄り添うことができる。そして 心を通わせることができる。そのつながりの中にこそ、本当の幸福があると思う。
もし老いも死もなかったら、その世界は きっと冷たく張りつめていると思う。
人の弱さに寄り添う理由もなく、競い続け、比べ続け、心はすり減っていくだろう。
共感も思いやりも行き場を失い、孤独だけが広がっていく。
僕たちが慈しみ合い つながることができるのは、老いと死が すべての人に平等に訪れるものだからだと思う。
そのなかで育まれていく関係に、僕は儚くも美しい欠片を見つけることができる。
「たとえ老いても 僕たちは 美しいものを創ることができる」
美しさは 誰かが決めるものじゃない。でも僕には 誰かの痛みにそっと寄り添ったり、励ましたりする心が美しく見える。絵を描くこと、詩を書くこと、だれかに微笑むこと、メールを送ることさえも、人に何かを届けようとする営みのひとつひとつは、優しさを育てる小さなチャンスだと思う。
そしてそれは 年齢を重ねるごとに 、より深く やわらかく 洗練されていく。
ほんの小さな希望だけれど、僕はこの気持ちを大切にしたい。それは これから穏やかに 幸福に生きていくための小さくても確かな足がかりになる。老いや死は たしかに怖いでもそれは 優しさと美しさを深めていくための、ひとつのプロセスなのかもしれない。
そう思えるだけで 僕は今日を、少しだけ前向きに生きることができるのだ。