数年前までの私は、祈りとか思いとか少し受動的な考えよりも、努力や現実的なことが好きだった。
行動と実力で現実を動かすことに満足していた。
もちろん、宇宙や万物の大いなる力に関しては、疑いの余地はなかった。
サレンダーすることの重要性や奇跡に対して信頼もあった。
それでも、どこか「自分が動かねば誰がやるんだ!」という想いが強くて結果も出したが、空回りもよくしていた。
人生まるごとチャレンジャーだったので、失敗もたくさんしたし、それだけ自信も付いた。
この15年位、ずっと現実的な活動ばかりしてきたがこの1年半で一気にまた精神的な世界に切り替わってきている。
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この半年は特にまた色々な経験をし、精神的な喜びを感じることが多かった。
そばにいても、いなくても変わらずに大切に思える人、離れていてもお互いに死ぬまで成長していこうと思える人に出会ったことは大きな恩寵だと思っている。
執着や依存ではなく、ただ自分の事のように「その人らしく生きてほしい」「嘘偽りなく、本来の魂の願いを生きてほしい」と自然に願えることだけでこんなに幸せな気持ちになれるとは思ってもいなかった。
こんな感覚は生まれて初めてだと思う。
親元を離れていった子供を心配し続ける親もいるが、そういった「心配」ではなく
完全な信頼と、この人ならこれから先何があっても大丈夫と思える、思いたい、という気持ちで溢れている。
祈ることや願うことで、幸せになれるんだなと初めて知ることができた。
その気持ちが届いていようと、いなくとも私の心が満たされる。
一方的に勝手にそう思っているだけなのに、幸せを感じられる。
なぜだろうと思って感じてみると、そんな風に思える人というのは「合わせ鏡の私」だからかもしれないことに気づいた。
私 = 相手なら ”相手の未来を信頼する” というのは、すなわち私自身を信頼することにつながる。
不思議な安堵感や安心感に包まれるのはそのためだ、とわかった。
好きとか嫌いとか、べちゃべちゃした愛情や友情を超えた、自分のように「大切に思える」人に出会えたことは奇跡だと思っている。
・・・そして最近は、カルマで繋がっていた因縁の相手や、過去に傷つけられたり、傷つけた相手にも祝福を自然に送ることができるようになった。
今は恐れず、明日を思い煩うことなく人生をもっとシンプルに・・・ 「喜びも苦しみも悲しみも何でもやってきていいよ」と運命に言える。
誰かが私を殺したいくらい憎んでも、死にたいくらい愛しても、どう思われてもかまわない。
どんな相手にも自由に思える自由を与えたい。
今までは、憎まれることはやっぱり怖いと思ったし、愛されすぎるのも怖かった。(呪詛も実際にあるしね)
でも、今は全ての人が私をどう思おうとかまわない。
思い方はその人の自由。 自由を与えることで、私も自由になれるから。
現実が厳しい中でも、心や魂が自由でいられれば、人は幸せになれる。
そして、どんな状況でどんな過去で、たとえ今は未来が見えなくても、誰でもどこからでも幸せになれることを伝えていけたらいいなと思う。
どんな人でも幸せになっていい。
幸せになる権利があることを教えたい。