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† 聖カミロ・デ・レリス † (St. Camillus de Lellis)
カミロは、1550年5月25日にナポリ王国の貴族の家に生まれました。
父は陸軍士官を勤めた人で、カミロは父の下で兵役に就き、ヴェネツィア共和国、オスマン帝国と戦いました。
父の死と脚への負傷が原因となり1575年に退役。その後、カプチン・フランシスコ修道会の建物を造る労働者の1人として雇われました。
カミロは攻撃的な性格で賭博好きでしたが、ある修道士がカミロの優れた側面を見出しました。
カミロはカプチン・フランシスコ修道会に入ることを望みましたが、脚の傷を理由に2度拒否されたので、ローマのサン・ジャコモ病院に勤めることになりました。
サン・ジャコモ病院では、カミロ自身長年の習慣であった賭博や飲酒といった悪癖を克服し、病人への献身的な看護を行いました。
そこでカミロは病人達にとって病院が不完全であることを感じ、地元で有名であった聖フィリッポに相談したところ、病人の肉体だけではなく霊魂も看護すべきと、司祭となることを薦められました。
カミロは34歳で司祭になり、2人の同志と共に「病人のしもべた」という修道会を創立しました。1591年にはローマ教皇から正式な承認を受け、のちにカミロ修道会となります。
カミロ修道会の会員は肩や胸に赤い十字架を着用する規則があり、これが後の赤十字運動の源泉となりました。
カミロ修道会の実践した看護方法は、病人への新鮮な空気、伝染病患者の隔離、正しい食事療法など現在の看護手法にも通じることが多いです。
1613年からのイタリア各地の病院を視察旅行中に倒れ、1614年7月14日にローマで息を引き取りました。
彼の創立した会は「聖カミロ修道会」として全世界に広まり、彼は病院・病人の保護者と呼ばれています。
生きた年代:1550年5月25日-1614年7月14日
守護分野:病気 / 病人 / 病院 / 医師 / 看護師
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《メダイ》
聖カミロ・デ・レリス 20×15mm
《十字架》
イエス キリスト 10×12mm
《サイズ》
40cm + アジャスター5cm
atelier †Leda†
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† 聖カミロ・デ・レリス † (St. Camillus de Lellis)
カミロは、1550年5月25日にナポリ王国の貴族の家に生まれました。
父は陸軍士官を勤めた人で、カミロは父の下で兵役に就き、ヴェネツィア共和国、オスマン帝国と戦いました。
父の死と脚への負傷が原因となり1575年に退役。その後、カプチン・フランシスコ修道会の建物を造る労働者の1人として雇われました。
カミロは攻撃的な性格で賭博好きでしたが、ある修道士がカミロの優れた側面を見出しました。
カミロはカプチン・フランシスコ修道会に入ることを望みましたが、脚の傷を理由に2度拒否されたので、ローマのサン・ジャコモ病院に勤めることになりました。
サン・ジャコモ病院では、カミロ自身長年の習慣であった賭博や飲酒といった悪癖を克服し、病人への献身的な看護を行いました。
そこでカミロは病人達にとって病院が不完全であることを感じ、地元で有名であった聖フィリッポに相談したところ、病人の肉体だけではなく霊魂も看護すべきと、司祭となることを薦められました。
カミロは34歳で司祭になり、2人の同志と共に「病人のしもべた」という修道会を創立しました。1591年にはローマ教皇から正式な承認を受け、のちにカミロ修道会となります。
カミロ修道会の会員は肩や胸に赤い十字架を着用する規則があり、これが後の赤十字運動の源泉となりました。
カミロ修道会の実践した看護方法は、病人への新鮮な空気、伝染病患者の隔離、正しい食事療法など現在の看護手法にも通じることが多いです。
1613年からのイタリア各地の病院を視察旅行中に倒れ、1614年7月14日にローマで息を引き取りました。
彼の創立した会は「聖カミロ修道会」として全世界に広まり、彼は病院・病人の保護者と呼ばれています。
生きた年代:1550年5月25日-1614年7月14日
守護分野:病気 / 病人 / 病院 / 医師 / 看護師
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《メダイ》
聖カミロ・デ・レリス 20×15mm
《十字架》
イエス キリスト 10×12mm
《サイズ》
40cm + アジャスター5cm
atelier †Leda†