意味解読の続報42 人は自然に生きたいわけではなく、自然性を限りなくそぎ取った洗練された文明形態を自然の代用品として選択しています。こうして本体に直に向き合わずにその代用品で間接的に済ますこと、すべてを代用品に置き換えていくことを倒錯とかフェティシズムといいます。たとえば料理では、皮となるくるみものの中に何らかの内容物となる具材を餡として詰めるスタッフ料理は、元来は内臓のある小動物や昆虫類などを丸ごと食べていたことの洗練形態でしょう。丸鶏の内蔵を取り去った空洞にはパンやレバーやフルーツなどを詰め戻したりします。身の周りの生き物は何でも捕まえて食べていたのでしょうが、現代ではほぼ店で売っている加工品しか食べません。条件さえ整えばなまの自然性を見たくないのです。布団や毛布や絨毯などの敷物類の迷彩模様柄は草むらの模倣ではないでしょうか。映画は実人生の人工的な代用品をやや非現実的な(つまり人形のような)役者が演じ直しているわけですが、ことによるとそうした自然の実写もより自然性の少ないCGやアニメに取って代わられるのかもしれません。アニメの扮装も好まれますし、美容整形も進化しています。なまの自然性は忌避される傾向は顕著なのです。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。
意味解読の続報42 人は自然に生きたいわけではなく、自然性を限りなくそぎ取った洗練された文明形態を自然の代用品として選択しています。こうして本体に直に向き合わずにその代用品で間接的に済ますこと、すべてを代用品に置き換えていくことを倒錯とかフェティシズムといいます。たとえば料理では、皮となるくるみものの中に何らかの内容物となる具材を餡として詰めるスタッフ料理は、元来は内臓のある小動物や昆虫類などを丸ごと食べていたことの洗練形態でしょう。丸鶏の内蔵を取り去った空洞にはパンやレバーやフルーツなどを詰め戻したりします。身の周りの生き物は何でも捕まえて食べていたのでしょうが、現代ではほぼ店で売っている加工品しか食べません。条件さえ整えばなまの自然性を見たくないのです。布団や毛布や絨毯などの敷物類の迷彩模様柄は草むらの模倣ではないでしょうか。映画は実人生の人工的な代用品をやや非現実的な(つまり人形のような)役者が演じ直しているわけですが、ことによるとそうした自然の実写もより自然性の少ないCGやアニメに取って代わられるのかもしれません。アニメの扮装も好まれますし、美容整形も進化しています。なまの自然性は忌避される傾向は顕著なのです。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。