言葉は人を傷つけるという話をします。
これは、俗にいう暴言とか、言葉のナイフの意味ではなくて、
普通に私たちが発言して見聞きしてる言葉で、私たちは常に傷つけられているという意味なんです。
ここまでの説明だと、
ほとんどのかたにとっては意味がわからないでしょう。
私も理解するのには時間がかかりました。
これはつまり…
例えばですが、
悲しすぎてまわりに怒鳴り散らしてるひとがいたとします。
その人が、怒鳴ってることにだけ注目してしまい、
「自分は今怒っているんだ」
と言葉にしてしまうと、
悲しんでいる自分を切り捨ててしまうことになりますよね。
その人の記憶のなかでは、悲しくて声をあらげたという事実が失われ、怒りに任せて怒鳴り散らしたのだという偽の記憶が上書きされてしまうことになります。
そうなると、悲しかったことなんて、その人はいつか忘れちゃいますよね。悲しみは消えていないのに、だれにも知られることがないまま心の傷になって残るんです。
…
みなさんも、多かれ少なかれ、こういう経験したことはあると思います。
だって、そもそも
感情を喜怒哀楽にわけることそのものが、本来は矛盾していて、
「嬉しい」「悲しい」「楽しい」と
なにげなく言葉にしてしまうだけで、
私たちは自分の中のいくつかの感情をなかったことにしてしまってるんです。
しかも、そこにさらに「世論」「常識」という情報がくわわることで、
私たちの本来の感情は、二度、殺されてしまうことになります。
そういうのがつもり積もれば、いつかなんらかの形で爆発します。
令和になった現代。
情報端末は普及し、
モラルの崩壊、陰惨な虐めが
目立つようになってきてますが、
私はそんな現状も、先人は予想して憂いていたのだなと思うわけです。
「人は誤った言葉で自分を表現するたびに傷つく」
これは、自害して亡くなったある文豪の言葉でした。
彼は教育者でもあり、子供の純粋な感受性をまもるために命を使い果たしたようなかたです。
彼が亡くなったのは何十年も昔のことなのですが、
その時点で彼は、
これから日本が情報化社会に発展し、
人の心は情報によって苦しみを背負うことになるのだと
危機感をいだいていたようです。
私が彼のこと言葉を知ったのは17歳のときで、
私はこのときから、
情報化社会から人の心を守るための仕事をすると決意して今にいたります。
占い師というのは、
鑑定のなかで依頼者の過去や現状を言い当てますが、
このとき、言葉を慎重に選び、伝えることで、
依頼者が切り捨ててしまっていた
寂しさや悲しさ、喜びや愛しさを
思い出してもらうことはできるんです。
鑑定結果が当たってたというだけで、
問題は解決してないのにも関わらず、
清々しい気持ちで帰っていくお客さんというのは、
おそらく、
占い師の言葉で
自分の感情の補完ができたから
すっきりしているのだと思います。
…
実は私も、昨日父親とメールのやりとりをするなかでイライラしてしまい(^_^;)
そのとき、
「父のことは好きだし、
いつだって会いたいのに、
なんでいざメールがきたら
こんなに腹が立つのだろう」
と、自分で自分が理解できなかったので、タロットに聞いてみたんです。
「私はなぜ父に素直になれないのか?」 と。
私のなかにあるのは
父への愛情と憎しみのふたつだと思ってましたから、
私は父に怒りをいだいてるから、素直になれないんだと、自分では認識していたのですが、
カードの返答は 意外にも
「それはあなたが相手に同情してるからだ」
で、
一瞬、意味がわからずに、ぽかんとなりました。
憎しみや怒りと同情では、意味が真逆な気がしたからです。
でもなんとなくしっくりくるところもあり、
「同情している」という言葉を気持ちのなかにおとしこんでいくと、ふいに悟ったわけです。
私の素直な気持ちは、
父のことが好きだとか会いたいとかそういう単純な好意ではなく、
「とにかく寂しいから父に会いたい!
両親への迷惑とか考えず実家に帰って
親と徹底的に話し合いたい!」
っていうわがままなものであり、
それを自粛している理由は憎悪ではなく、
「それをやると両親があまりにも可哀想だから、やるわけにはいかないだけ」
であると認識をあらためました。
だって私の両親って不憫な人たちなんですよ。
…そうかー私は父に同情してたから、
報われないのはわかってても父の心配したり気を遣ったりしてしまってたんだなと、
自分の本心に気づきました。
「なんで憎い父のために私が尽くしてるんだろう」
とイライラしてたんですが、
「父が可哀想だから気にかけずにはいられなかっただけなんだ」
と考えるようにすると、
イライラしてたのも不思議なくらいすかっとして、
現状なにも変わってないのに気持ち晴れやかなんですよ(笑)
本当に、感情を正しく言葉にできるだけで、なんとかなる問題はあるんですね。