作品説明
禅語の中で最もほっとさせられることばがこの「喫茶去」である。
去の字は喫茶の強調の助辞であり、去るという意味はない。「お茶を一服如何
ですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」と云う程度の意味に過ぎないが、
「どうぞ、お茶でも召し上がれ」という喫茶去の心を日常に生かせるだろうか。
凡聖、貴賎、男女、自他等の分別は無く一切の思量の分別の無い無心の境地からの「喫茶去」
この無心の働きからでるところに、茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けと
して尊んで自ら無心に茶を点て、貧富貴賎の客を択ばず無心に施す心を養ってきた
ことだろう。私たちはおうおうにして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が
来れば鄭重にもてなし、嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまい
がちである。分別を入れず、誰に対しても計らい無く、真心から接して行きたい
ものである。
禅語の中で最もほっとさせられることばがこの「喫茶去」である。
去の字は喫茶の強調の助辞であり、去るという意味はない。「お茶を一服如何
ですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」と云う程度の意味に過ぎないが、
「どうぞ、お茶でも召し上がれ」という喫茶去の心を日常に生かせるだろうか。
凡聖、貴賎、男女、自他等の分別は無く一切の思量の分別の無い無心の境地からの「喫茶去」
この無心の働きからでるところに、茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けと
して尊んで自ら無心に茶を点て、貧富貴賎の客を択ばず無心に施す心を養ってきた
ことだろう。私たちはおうおうにして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が
来れば鄭重にもてなし、嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまい
がちである。分別を入れず、誰に対しても計らい無く、真心から接して行きたい
ものである。