作品説明
タイトルと作品が全然合っていませんが、あしからず!
相対主義 前の続き
ある記事より
相対主義と絶対主義
私たちが好きな色を訊かれて答えるとき、基本的にすべての色(赤、青、黄、緑…)を知った上で答えます。
だから仮に私は「赤」が好きだとしても、「青」の好きな人や「黄色」を好きな人もいるということが分かり、
別に自分の好きなカラーを強要することはありません。
これが相対主義的なものの見方です。
しかし、それが価値や思想の問題になると、そういう当たり前のことが分からなくなります。
ただ、子供のころの家庭環境で仏教に親しんだから仏教が好き。
ただ、青年期にパンクロックを通して実存主義に感動したから実存主義が好き。
ただ、苦しいときにキリスト教に救われたからキリスト教が好き。
ただ、大学で仲間と共に学んだからマルクス主義が好き。
たいていはこういう形で、好きな思想や価値観をもちます。
しかし、この場合本当にその思想が好きというわけではなく、単にそれしか知らないというだけです。
赤色しか知らないから赤色が好き、緑色しか知らないから緑色が好きといっているようなものです。
そして、自分の価値に対立する思想に関しては何も学びもしないで、
未知のものを恐れる子供のようにただ盲目的に批判するだけです。
このたったひとつのパースペクティブからしか世界を見られないのが絶対主義です。
基本的なひとつの原理原則以外は徹底的に排除する原理主義も同様です。
例えば、死者の肉を食べるなど私たちの文化圏では最悪の行為ですが、
広い世界永い歴史においてそれらを自文化とする集団は少なからず存在します。
ある未開民族では、家長が亡くなるとその肉を家族の成員が一口ずつ食べます。
それによって亡くなった家長は家族のそれぞれの成員の血肉となり、
象徴的に皆の身体の中で生き続けることになります。
パン(肉)と赤ワイン(血)というキリストの身体を食べ皆が兄弟となる聖体拝領と同じ原理で、
未開人にとっては非常に神聖で善良な行為です。
しかし、そこへ開拓にやってきた知的な文明人は、彼らをカニバリズムの野蛮人として処刑します。
一体どちらが野蛮なのか。
勿論、どちらが正しいということはありません。
ただそこにあるのは、他者の視点から物を見ることのできない、
自分のカラーしか許容できない者同士の争いです。
「相対主義では価値観が乱立して争いが生じる」と思われがちですが、それは逆です。
それぞれのカラーを原理原則とするさまざまな絶対主義が争う姿が、
全体の外観として相対的な対立に見えているだけです。
始点としての相対主義
だから本当に自分が好きだと思う価値観を本当に好きだといえるためには、
自分に対立する価値や他の思想を基本的な部分でも学ぶ必要があります。
そして、他の思想をぐるっと一周して理解をえた上で自分の思想に還ってきた時、
それでもやっぱりその思想を好きだといえるなら、本物です。
そういう本当に好きなものを知る自立した人間は、自分の価値を大切にすると共に、
他者の価値も無碍にはしません。
例えば、とある宗教を子供のころから刷り込まれ、その価値のためだけに生きてきた人に対し、
その宗教を批判するような言葉を投げかければ、一体どうなるでしょうか。
その人にとってその価値は人生のすべてであり、その人の全人格、アイデンティティーそのものです。
それを否定することは、その人を「無」にするに等しく、場合によっては批判者を殺しにかかってくるでしょう。
むしろ彼はその宗教を心の底から信じていないため、その無意識的不安から、批判に耐えられず逆上するのです。
心の奥底では信じていないからこそ、他者に強要したり、批判に対し憤怒するのです。
本当に自分の価値を信じ、それを好きといえる人は、あらゆる批判に耐え抜きます。
なぜならそれらの批判をすべて知った上で、自分の好きな思想を選んでいるからです。
すべての色を知った上で、本当に好きな色を選ぶように。
相対主義は終点ではなく、たんなる当たり前のスタート地点でしかありません。
タイトルと作品が全然合っていませんが、あしからず!
相対主義 前の続き
ある記事より
相対主義と絶対主義
私たちが好きな色を訊かれて答えるとき、基本的にすべての色(赤、青、黄、緑…)を知った上で答えます。
だから仮に私は「赤」が好きだとしても、「青」の好きな人や「黄色」を好きな人もいるということが分かり、
別に自分の好きなカラーを強要することはありません。
これが相対主義的なものの見方です。
しかし、それが価値や思想の問題になると、そういう当たり前のことが分からなくなります。
ただ、子供のころの家庭環境で仏教に親しんだから仏教が好き。
ただ、青年期にパンクロックを通して実存主義に感動したから実存主義が好き。
ただ、苦しいときにキリスト教に救われたからキリスト教が好き。
ただ、大学で仲間と共に学んだからマルクス主義が好き。
たいていはこういう形で、好きな思想や価値観をもちます。
しかし、この場合本当にその思想が好きというわけではなく、単にそれしか知らないというだけです。
赤色しか知らないから赤色が好き、緑色しか知らないから緑色が好きといっているようなものです。
そして、自分の価値に対立する思想に関しては何も学びもしないで、
未知のものを恐れる子供のようにただ盲目的に批判するだけです。
このたったひとつのパースペクティブからしか世界を見られないのが絶対主義です。
基本的なひとつの原理原則以外は徹底的に排除する原理主義も同様です。
例えば、死者の肉を食べるなど私たちの文化圏では最悪の行為ですが、
広い世界永い歴史においてそれらを自文化とする集団は少なからず存在します。
ある未開民族では、家長が亡くなるとその肉を家族の成員が一口ずつ食べます。
それによって亡くなった家長は家族のそれぞれの成員の血肉となり、
象徴的に皆の身体の中で生き続けることになります。
パン(肉)と赤ワイン(血)というキリストの身体を食べ皆が兄弟となる聖体拝領と同じ原理で、
未開人にとっては非常に神聖で善良な行為です。
しかし、そこへ開拓にやってきた知的な文明人は、彼らをカニバリズムの野蛮人として処刑します。
一体どちらが野蛮なのか。
勿論、どちらが正しいということはありません。
ただそこにあるのは、他者の視点から物を見ることのできない、
自分のカラーしか許容できない者同士の争いです。
「相対主義では価値観が乱立して争いが生じる」と思われがちですが、それは逆です。
それぞれのカラーを原理原則とするさまざまな絶対主義が争う姿が、
全体の外観として相対的な対立に見えているだけです。
始点としての相対主義
だから本当に自分が好きだと思う価値観を本当に好きだといえるためには、
自分に対立する価値や他の思想を基本的な部分でも学ぶ必要があります。
そして、他の思想をぐるっと一周して理解をえた上で自分の思想に還ってきた時、
それでもやっぱりその思想を好きだといえるなら、本物です。
そういう本当に好きなものを知る自立した人間は、自分の価値を大切にすると共に、
他者の価値も無碍にはしません。
例えば、とある宗教を子供のころから刷り込まれ、その価値のためだけに生きてきた人に対し、
その宗教を批判するような言葉を投げかければ、一体どうなるでしょうか。
その人にとってその価値は人生のすべてであり、その人の全人格、アイデンティティーそのものです。
それを否定することは、その人を「無」にするに等しく、場合によっては批判者を殺しにかかってくるでしょう。
むしろ彼はその宗教を心の底から信じていないため、その無意識的不安から、批判に耐えられず逆上するのです。
心の奥底では信じていないからこそ、他者に強要したり、批判に対し憤怒するのです。
本当に自分の価値を信じ、それを好きといえる人は、あらゆる批判に耐え抜きます。
なぜならそれらの批判をすべて知った上で、自分の好きな思想を選んでいるからです。
すべての色を知った上で、本当に好きな色を選ぶように。
相対主義は終点ではなく、たんなる当たり前のスタート地点でしかありません。