作品説明
ある記事より
【禅語】法食同輪 ~修行でないことが世の中にあるだろうか~
法食同輪という禅語は、法と食、つまり坐禅や読経といった行い(法)と、
食事を作ったりいただいたりすることに、優劣や上下などないということを言っている。
なんとなく私たちは、「仏道修行」というと坐禅などを思い浮かべ、
「食事の仕度」というと裏方仕事のように捉えがちになるが、
そうした考えを戒める言葉だということ。
いくら坐禅が重要だといっても、食事も摂らないで坐禅ばかりするのが正しい修行の姿勢かといえば、
そうではない。それでは命を落とすだけ。
坐禅をするためには、きちんと食事も摂っていなくてはいけない。
どれだけ体にいいと言われる食べ物であっても、そればっかりを食べていたら不健康になるのと同じで、
何事も極端に偏ってしまうのはよくない。
禅の修行もそれと同じで、日常生活のすべてが互いに関係しあうことで、
はじめて正しい修行の姿があらわれてくることを念頭において修行をすることが求められる。
すべてが関係性の上に成り立っているのなら、そのすべてを等しく大切にしなければおかしいだろう。
一方を重んじ他方を軽んじるという姿勢は、禅では特に厳しく戒められるポイントなのだ。
つまり、法と食は同等であるということ。
同輪という言葉は、車の両輪と考えるとわかりやすいかもしれない。
車は左右どちらか一方のタイヤだけで走るものではない。
あるいは、もし左右にタイヤがあっても、
タイヤの大きさが左右で異なれば車は自然と曲がって進むことになる。
では、車が真っ直ぐ進むためにはどうしたらいいか。
簡単なことで、左右で同じタイヤを用いればいい。
法と食を等しく重んじるとは、いわば車の左右に同じタイヤを取り付けるということなのである。
そうすることではじめて、車も人も真っ直ぐ進むことができるというのが禅の基本であるというわけだ。
食事というキーワードは、何も食事だけを特別視しているわけではなく、
あらゆる日常的な行いの代表として食事をピックアップしているだけ。
だから掃除でもよかったわけだし、別に睡眠でもよかったわけだ。
特別なことが修行なのではなく、生活そのものが修行。
それが禅の修行観であり、法食同輪の説くところ。
ある記事より
【禅語】法食同輪 ~修行でないことが世の中にあるだろうか~
法食同輪という禅語は、法と食、つまり坐禅や読経といった行い(法)と、
食事を作ったりいただいたりすることに、優劣や上下などないということを言っている。
なんとなく私たちは、「仏道修行」というと坐禅などを思い浮かべ、
「食事の仕度」というと裏方仕事のように捉えがちになるが、
そうした考えを戒める言葉だということ。
いくら坐禅が重要だといっても、食事も摂らないで坐禅ばかりするのが正しい修行の姿勢かといえば、
そうではない。それでは命を落とすだけ。
坐禅をするためには、きちんと食事も摂っていなくてはいけない。
どれだけ体にいいと言われる食べ物であっても、そればっかりを食べていたら不健康になるのと同じで、
何事も極端に偏ってしまうのはよくない。
禅の修行もそれと同じで、日常生活のすべてが互いに関係しあうことで、
はじめて正しい修行の姿があらわれてくることを念頭において修行をすることが求められる。
すべてが関係性の上に成り立っているのなら、そのすべてを等しく大切にしなければおかしいだろう。
一方を重んじ他方を軽んじるという姿勢は、禅では特に厳しく戒められるポイントなのだ。
つまり、法と食は同等であるということ。
同輪という言葉は、車の両輪と考えるとわかりやすいかもしれない。
車は左右どちらか一方のタイヤだけで走るものではない。
あるいは、もし左右にタイヤがあっても、
タイヤの大きさが左右で異なれば車は自然と曲がって進むことになる。
では、車が真っ直ぐ進むためにはどうしたらいいか。
簡単なことで、左右で同じタイヤを用いればいい。
法と食を等しく重んじるとは、いわば車の左右に同じタイヤを取り付けるということなのである。
そうすることではじめて、車も人も真っ直ぐ進むことができるというのが禅の基本であるというわけだ。
食事というキーワードは、何も食事だけを特別視しているわけではなく、
あらゆる日常的な行いの代表として食事をピックアップしているだけ。
だから掃除でもよかったわけだし、別に睡眠でもよかったわけだ。
特別なことが修行なのではなく、生活そのものが修行。
それが禅の修行観であり、法食同輪の説くところ。