ある記事より
「三太郎の日記」を読んで、なぜ私が昨今の「自己啓発」のようなものが大嫌いなのかが、よくわかった。
「彼らは自分の弱点を弱点として認めず、自分の欠点を欠点として承認しない。
そのために、心の中で自分を克服しようという必然性を持たないのである。
彼らは自分の弱点を楽観視することによって、苦もなくその弱点の上を滑ることができる。
そして弱点を簡単に上滑りすることで、「自己肯定」の信仰を築き上げるのである」
阿部次郎が再三書いているのは、「無鉄砲な自己肯定の危うさ」である。
「弱点に目をつぶって、とにかく自分に自信を持ちましょう」
という根拠のない自信は、浅薄な人生、上滑りした人生に過ぎないと述べているのである。
それに対して、「弱い者」や「自己を否定する者」ほど、実は強い人間であると阿部次郎は言う。
「弱い者はその弱さを自覚すると同時に、自分の中に不断の敵を見ることができる。
そのことをたえず自覚することで、不断の進展をうながす機会が与えられるのである。
人は外の世界と接触するときに臆病になるものだが、自分の臆病さを自覚している者は、
無鉄砲な者よりも物事を深く考えることができる。
弱い者は、それを克服しようとする努力によって、最初から強い者よりもさらに深く人生を経験することができるはずである。
弱い者がいましむべきは、その弱さに浸ってしまうことである。それを克服しようと思うかぎり、私たちは自分の弱さを悲観する必要はないのだ」
かつて私のまわりにも「楽観的な自己肯定」をよしとする人たちがいて閉口したものだが、
最近はどうやらそれが、社会全体の雰囲気になっていて、さらにはそれが国の政策にまで蔓延している。
困った世の中になったものだなあ。
ある記事より
「三太郎の日記」を読んで、なぜ私が昨今の「自己啓発」のようなものが大嫌いなのかが、よくわかった。
「彼らは自分の弱点を弱点として認めず、自分の欠点を欠点として承認しない。
そのために、心の中で自分を克服しようという必然性を持たないのである。
彼らは自分の弱点を楽観視することによって、苦もなくその弱点の上を滑ることができる。
そして弱点を簡単に上滑りすることで、「自己肯定」の信仰を築き上げるのである」
阿部次郎が再三書いているのは、「無鉄砲な自己肯定の危うさ」である。
「弱点に目をつぶって、とにかく自分に自信を持ちましょう」
という根拠のない自信は、浅薄な人生、上滑りした人生に過ぎないと述べているのである。
それに対して、「弱い者」や「自己を否定する者」ほど、実は強い人間であると阿部次郎は言う。
「弱い者はその弱さを自覚すると同時に、自分の中に不断の敵を見ることができる。
そのことをたえず自覚することで、不断の進展をうながす機会が与えられるのである。
人は外の世界と接触するときに臆病になるものだが、自分の臆病さを自覚している者は、
無鉄砲な者よりも物事を深く考えることができる。
弱い者は、それを克服しようとする努力によって、最初から強い者よりもさらに深く人生を経験することができるはずである。
弱い者がいましむべきは、その弱さに浸ってしまうことである。それを克服しようと思うかぎり、私たちは自分の弱さを悲観する必要はないのだ」
かつて私のまわりにも「楽観的な自己肯定」をよしとする人たちがいて閉口したものだが、
最近はどうやらそれが、社会全体の雰囲気になっていて、さらにはそれが国の政策にまで蔓延している。
困った世の中になったものだなあ。