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火事、火傷、病気、消防士、妊婦、看護師、病人の守護聖人”シエナの聖カタリナ”のメダイネックレスです。
『シエナの聖カタリナ』(St. Caterina da Siena)
カタリナは1347年3月25日、イタリア中部のシエナの町の裕福な染物屋の娘として生まれました。
両親共に信心深く働き者で、末子のカタリナも非常に愛くるしい子供でした。
6歳のある夕暮れ時、カタリナはドミニコ教会の尖塔の上に、教皇の三重冠を戴いたキリストが玉座にすわり、周囲に聖ペトロ、聖パウロ、福音史家聖ヨハネと白衣をつけた聖人が立っている幻を見ました。
キリストは微笑みながらカタリナを祝福しました。
この出現以来、カタリナは前にもまして祈りに励み、苦業を行い、孤独のうちに神と語りたいと望み、17才でドミニコ会第三会に入会しました。
3年間を沈黙と祈りと苦業の中に過ごした後、主イエス・キリストから使徒職への使命を授かりました。
この日からカタリナは病人を看護し、囚人を訪問し、町の中の党派の争い、教会内部の権力争いの中を、平和の使徒としてかけ回りました。
フランスのアヴィニオンに居を定めていたグレゴリオ11世教皇も、彼女の熱誠と炎のような言葉にローマに帰還を決意し、遂に1377年、ローマに入りました。
カタリナの生涯における大事業の一つはこれで完了しましたが、このことはすべての人に支持されていたわけではありませんでした。
1378年、不安定な立場にあった教皇によってローマに呼ばれたカタリナは、教皇を支持するように枢機卿たちを熱心に説得しました。最後まで教会の為に尽くしたカタリナは、1380年4月29日、33才で創造主のもとに帰っていきました。
無学な庶民の娘であったにもかかわらず、神の霊に照らされて、教皇をはじめ多くの人に助言し、信念を生き抜いたカタリナは、1970年、リジューの聖女テレジアと共に、女性としてはじめて、「教会博士」の称号で呼ばれるようになりました。
《メダイ》
シエナの聖カタリナ 15×20mm
《十字架》
イエス キリスト 10×12mm
《サイズ》
40cm + アジャスター5cm
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火事、火傷、病気、消防士、妊婦、看護師、病人の守護聖人”シエナの聖カタリナ”のメダイネックレスです。
『シエナの聖カタリナ』(St. Caterina da Siena)
カタリナは1347年3月25日、イタリア中部のシエナの町の裕福な染物屋の娘として生まれました。
両親共に信心深く働き者で、末子のカタリナも非常に愛くるしい子供でした。
6歳のある夕暮れ時、カタリナはドミニコ教会の尖塔の上に、教皇の三重冠を戴いたキリストが玉座にすわり、周囲に聖ペトロ、聖パウロ、福音史家聖ヨハネと白衣をつけた聖人が立っている幻を見ました。
キリストは微笑みながらカタリナを祝福しました。
この出現以来、カタリナは前にもまして祈りに励み、苦業を行い、孤独のうちに神と語りたいと望み、17才でドミニコ会第三会に入会しました。
3年間を沈黙と祈りと苦業の中に過ごした後、主イエス・キリストから使徒職への使命を授かりました。
この日からカタリナは病人を看護し、囚人を訪問し、町の中の党派の争い、教会内部の権力争いの中を、平和の使徒としてかけ回りました。
フランスのアヴィニオンに居を定めていたグレゴリオ11世教皇も、彼女の熱誠と炎のような言葉にローマに帰還を決意し、遂に1377年、ローマに入りました。
カタリナの生涯における大事業の一つはこれで完了しましたが、このことはすべての人に支持されていたわけではありませんでした。
1378年、不安定な立場にあった教皇によってローマに呼ばれたカタリナは、教皇を支持するように枢機卿たちを熱心に説得しました。最後まで教会の為に尽くしたカタリナは、1380年4月29日、33才で創造主のもとに帰っていきました。
無学な庶民の娘であったにもかかわらず、神の霊に照らされて、教皇をはじめ多くの人に助言し、信念を生き抜いたカタリナは、1970年、リジューの聖女テレジアと共に、女性としてはじめて、「教会博士」の称号で呼ばれるようになりました。
《メダイ》
シエナの聖カタリナ 15×20mm
《十字架》
イエス キリスト 10×12mm
《サイズ》
40cm + アジャスター5cm