意味解読の続報15 動物には固定点による定点観測がないので時間はありません。動物には生の持続があるだけで時間経過を感じたりはしません。もとより人間にも、生の最中という持続sる現在があるだけで過去も未来もありません。人間の自己意識は空虚な空白であり、自然の不断の生成‐持続から離脱した傍観者の空っぽの現在点となるため、定点観察者となって物事の推移を眺めて時間の経過を感じます。世界という一大活物からはじき出されてもいる空っぽの自己意識は疎外感‐欠如感に苛まれるため、記憶を想起して自分のルーツを過去として構成し、その反転である予測を空虚な自分の充足願望の未来として構成します。つまり時間は自分探しの物語です。傍観者は世界から僅かに退いた観察者ですから自分の相関物である空白の面に向かって文字や絵を描いたりします。そこで時間は図式的に線的時間で表現され、自らの対応物(0地点)として現在を現時点とします。点は動きのない静止ですから、現時点が線上を移動する運動にはなりません。この抽象的観念の認識上、現時点との対応では世界は止まって見える、がゼノンの「飛ぶ矢ほ飛ばない」のパラドクスです。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。
意味解読の続報15 動物には固定点による定点観測がないので時間はありません。動物には生の持続があるだけで時間経過を感じたりはしません。もとより人間にも、生の最中という持続sる現在があるだけで過去も未来もありません。人間の自己意識は空虚な空白であり、自然の不断の生成‐持続から離脱した傍観者の空っぽの現在点となるため、定点観察者となって物事の推移を眺めて時間の経過を感じます。世界という一大活物からはじき出されてもいる空っぽの自己意識は疎外感‐欠如感に苛まれるため、記憶を想起して自分のルーツを過去として構成し、その反転である予測を空虚な自分の充足願望の未来として構成します。つまり時間は自分探しの物語です。傍観者は世界から僅かに退いた観察者ですから自分の相関物である空白の面に向かって文字や絵を描いたりします。そこで時間は図式的に線的時間で表現され、自らの対応物(0地点)として現在を現時点とします。点は動きのない静止ですから、現時点が線上を移動する運動にはなりません。この抽象的観念の認識上、現時点との対応では世界は止まって見える、がゼノンの「飛ぶ矢ほ飛ばない」のパラドクスです。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。