意味解読の続報14 唯物論の眼目は必ずしも人が基点(中心、主語、原因)にならないということです。唯物論では、人が自分の無垢な視点(見方)から始められると思うのはあらかじめ個人を動機づけている様々な原因の複合的なネットワークを把握しきれない無知に基づく錯覚であるとします。偏った個人的な情念や信念や性向など不純な主観性にあらかじめ歪んだ視点であるだけでなく、環境や身体や微生物などの物質的な諸影響のもとに気づかぬままに動かされてもいるということです。するとそうした唯物論の立場や主張だけは例外的にピュアで正しいということにもならなくなります。唯物論的に自己意識を自然の偶然性や相対性や多数性の束へと解消してしまうと、そのような関係性の網の目である自然と拮抗するがゆえに成立している空っぽの自己意識の自己中心的な視点の積極的な存在性が見失われ、またかようにも人がこの自己意識に執着して自己吟味している意味もわからなくなります。錯覚としてでも、そもそもまず空虚な主体の視点があればこそ、自身の数々の原因を見出しうるわけです。唯物論は逆に空白の意識のその原因がわからない事実を回避する情念にとらわれています。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。
意味解読の続報14 唯物論の眼目は必ずしも人が基点(中心、主語、原因)にならないということです。唯物論では、人が自分の無垢な視点(見方)から始められると思うのはあらかじめ個人を動機づけている様々な原因の複合的なネットワークを把握しきれない無知に基づく錯覚であるとします。偏った個人的な情念や信念や性向など不純な主観性にあらかじめ歪んだ視点であるだけでなく、環境や身体や微生物などの物質的な諸影響のもとに気づかぬままに動かされてもいるということです。するとそうした唯物論の立場や主張だけは例外的にピュアで正しいということにもならなくなります。唯物論的に自己意識を自然の偶然性や相対性や多数性の束へと解消してしまうと、そのような関係性の網の目である自然と拮抗するがゆえに成立している空っぽの自己意識の自己中心的な視点の積極的な存在性が見失われ、またかようにも人がこの自己意識に執着して自己吟味している意味もわからなくなります。錯覚としてでも、そもそもまず空虚な主体の視点があればこそ、自身の数々の原因を見出しうるわけです。唯物論は逆に空白の意識のその原因がわからない事実を回避する情念にとらわれています。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。