意味解読の続報25 アダム(原人間)は食べることを禁じられていた知恵の林檎をかじったために楽園(自然の安寧)を追放されます。人間はこの原罪のために堕落した存在であり、自然と調和しません。これは見方を変えれば本能の奴隷であることから自由になる解放です。とするなら、動物もまた本能の機械に閉じ込められていることから解放されることを夢見ていて、その囚われである自らに無限の悲しみと焦燥を感じているのでしょうか。生物が発するあらゆる所作は本能に基づく機械的な信号です。人間は本能的な意味(サイン)だけを持った動物のシグナルを曲解して、そこに人間的な心情を読み取ったりしますが、それはむしろ自分自身の心情の投影です。人間はある意味病んでいて、本能的サインを見落とし誤読して、すべてを人間的な意味(擬人化)に置き換えてしまおうとします。自然から乖離した人間の心情の寄る辺ない孤独の反映なのでしょう。あるいはすべてを人間的な意味に置き換え直す覇権的創造なわけですが、動物の機械的仕種を人間的な意味に変換することは文化的創作物の根幹(ほとんど)とさえ言えます。鳥のさえずりが日暮を名残惜しんでいるとか、道端の花が可憐に咲いているなど。動物も解放を夢見ているのでしょうか。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。
意味解読の続報25 アダム(原人間)は食べることを禁じられていた知恵の林檎をかじったために楽園(自然の安寧)を追放されます。人間はこの原罪のために堕落した存在であり、自然と調和しません。これは見方を変えれば本能の奴隷であることから自由になる解放です。とするなら、動物もまた本能の機械に閉じ込められていることから解放されることを夢見ていて、その囚われである自らに無限の悲しみと焦燥を感じているのでしょうか。生物が発するあらゆる所作は本能に基づく機械的な信号です。人間は本能的な意味(サイン)だけを持った動物のシグナルを曲解して、そこに人間的な心情を読み取ったりしますが、それはむしろ自分自身の心情の投影です。人間はある意味病んでいて、本能的サインを見落とし誤読して、すべてを人間的な意味(擬人化)に置き換えてしまおうとします。自然から乖離した人間の心情の寄る辺ない孤独の反映なのでしょう。あるいはすべてを人間的な意味に置き換え直す覇権的創造なわけですが、動物の機械的仕種を人間的な意味に変換することは文化的創作物の根幹(ほとんど)とさえ言えます。鳥のさえずりが日暮を名残惜しんでいるとか、道端の花が可憐に咲いているなど。動物も解放を夢見ているのでしょうか。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。