意味解読の続報9 因果関係は必ず結果から原因を探る手続きであることによって、常に結果がむしろ原因となるため、原因と結果が循環し錯綜に陥ってしまいます。つまり結果が自分に都合よく過去の原因を創造する原因となってしまうわけです。このため現在の視点に基づいてなされるご都合主義的な原因探求や歴史の恣意的な解釈の向こうには、人が辿り着けない真の客観的な現実や歴史的事実や物自体などがあるという観念にとらわれます。こうした生のままの裸の事物という観念は人間の空白の立場(無垢の視点)に対応しているものです。存在化は人為なので、人間が介在しないなら何物も存在しません。存在とは人間と周囲との関係性の錯綜体です。原因と結果の悪循環を解決するヘーゲルの弁証法では、結果は原因に促されて自らの原因を見い出そうとするので、原因と結果(唯物論と観念論)は円環を閉じます。たとえば名付けは、事物が人間の名付けを通じて存在化しようとしているために事物がそのように人間を促すというループになります。名付けられた事物以外には何も存在しません。とするなら空白の立場(空集合)は、真実や神が自らを存在化させようとして空いているということになります。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。
意味解読の続報9 因果関係は必ず結果から原因を探る手続きであることによって、常に結果がむしろ原因となるため、原因と結果が循環し錯綜に陥ってしまいます。つまり結果が自分に都合よく過去の原因を創造する原因となってしまうわけです。このため現在の視点に基づいてなされるご都合主義的な原因探求や歴史の恣意的な解釈の向こうには、人が辿り着けない真の客観的な現実や歴史的事実や物自体などがあるという観念にとらわれます。こうした生のままの裸の事物という観念は人間の空白の立場(無垢の視点)に対応しているものです。存在化は人為なので、人間が介在しないなら何物も存在しません。存在とは人間と周囲との関係性の錯綜体です。原因と結果の悪循環を解決するヘーゲルの弁証法では、結果は原因に促されて自らの原因を見い出そうとするので、原因と結果(唯物論と観念論)は円環を閉じます。たとえば名付けは、事物が人間の名付けを通じて存在化しようとしているために事物がそのように人間を促すというループになります。名付けられた事物以外には何も存在しません。とするなら空白の立場(空集合)は、真実や神が自らを存在化させようとして空いているということになります。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。