意味解読の続報6 「この世界(一つの宇宙)がある」と言えるためには、「この」と指し示せる全体性として、境界線で囲われた一つのまとまりがなければなりませんが、その全体性の輪郭は直ちにその境界線の外側を随伴してしまうので、世界は内と外の二つになるという矛盾に陥ります。世界をその外側から「この」と指し示してその全体性について外部規定できないなら、つまりただ内部規定だけなら、徹頭徹尾不確かになんとなく世界の全体像を想定しているだけになります。この難局をのりこえるために神という外部視点が要請されることになります。もし世界にはその外はなく内部無限であるなら、その無常性の中で「この世界」は成立せず自己同一も崩壊します。なので内部世界は強制的にその全体像を想定し続けて、かつ、その曖昧で恣意的な不完全性を露呈させないように、矛盾を集約している神という正当性の保証人に頼る必要があるということになります。宇宙には果てがあり、かつ、その外部はない、としなければなりませんが、このあやふやな不気味さをやわらげるために解決の先取りである神の外部視点をまず想定してから洞察を続ける必要があるわけです。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。
意味解読の続報6 「この世界(一つの宇宙)がある」と言えるためには、「この」と指し示せる全体性として、境界線で囲われた一つのまとまりがなければなりませんが、その全体性の輪郭は直ちにその境界線の外側を随伴してしまうので、世界は内と外の二つになるという矛盾に陥ります。世界をその外側から「この」と指し示してその全体性について外部規定できないなら、つまりただ内部規定だけなら、徹頭徹尾不確かになんとなく世界の全体像を想定しているだけになります。この難局をのりこえるために神という外部視点が要請されることになります。もし世界にはその外はなく内部無限であるなら、その無常性の中で「この世界」は成立せず自己同一も崩壊します。なので内部世界は強制的にその全体像を想定し続けて、かつ、その曖昧で恣意的な不完全性を露呈させないように、矛盾を集約している神という正当性の保証人に頼る必要があるということになります。宇宙には果てがあり、かつ、その外部はない、としなければなりませんが、このあやふやな不気味さをやわらげるために解決の先取りである神の外部視点をまず想定してから洞察を続ける必要があるわけです。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。