意味解読の続報21 動物は視野がそのまま世界で、両者は一体です。つまり自らの視点は視野暗点であり、その世界の中の対象ではありません。見ている自分という自意識がないので、動物自身はその世界の中で自らの存在認識はなく、視界が世界そのものという生のあり方です。人間も同様ですが、同時に認識として「私は世界を見る」という主客分離した世界概念の定式を持ちます。人間誰もがその定式に則って一つの形式的主語「私は」に代入されるので、対象である世界は一つであり、人間全員がいずれも世界の中の対象(存在)になります。こうして一つの世界の中に全員がその要素としておさまり、部外者はなく自己完結します。厳密には「私は」は世界内要素でなく世界に対する例外的で特権的な部外者的視点でなければこの定式は成り立ちませんが、この「私は」は空虚な形式として世界の余白にある空白の主語なわけです。この実体のない外部視点の不完全性の座りの悪さの不具合を補うために、完全に外部的な余白にあって世界を丸ごと万遍なくとらえうる想像上の保証人が必要ですが、それがマルチパースペクティブな万能視点を持つ唯一の規範的主語である神の視点という想定になります。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。
意味解読の続報21 動物は視野がそのまま世界で、両者は一体です。つまり自らの視点は視野暗点であり、その世界の中の対象ではありません。見ている自分という自意識がないので、動物自身はその世界の中で自らの存在認識はなく、視界が世界そのものという生のあり方です。人間も同様ですが、同時に認識として「私は世界を見る」という主客分離した世界概念の定式を持ちます。人間誰もがその定式に則って一つの形式的主語「私は」に代入されるので、対象である世界は一つであり、人間全員がいずれも世界の中の対象(存在)になります。こうして一つの世界の中に全員がその要素としておさまり、部外者はなく自己完結します。厳密には「私は」は世界内要素でなく世界に対する例外的で特権的な部外者的視点でなければこの定式は成り立ちませんが、この「私は」は空虚な形式として世界の余白にある空白の主語なわけです。この実体のない外部視点の不完全性の座りの悪さの不具合を補うために、完全に外部的な余白にあって世界を丸ごと万遍なくとらえうる想像上の保証人が必要ですが、それがマルチパースペクティブな万能視点を持つ唯一の規範的主語である神の視点という想定になります。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。