意味解読の続報7 デカルトの「我思う故に我在り」は無駄な無意味な同語反復ではなく、自己反省の定式を表しています。つまり自己意識においては視点としての自己と対象としての自己の分離という自己の二重化が起きていなければならないので、この分裂の「我思う」と「我在り」とは別の我です。「我思う」は「我疑う」であり、自分がまやかし(錯誤)に陥っていないか自己懐疑します。これは奇異なことではなく環境が変われば視点や価値観が変わって自己変革するようなことは日常茶飯事です。この自己の吟味は際限なく続くので「我思う(疑う視点)」は常に離れ「我在り」の背後へと無限後退します。自分が間違っていることはあっても、この疑い自体は疑えませんから、デカルトはそれ(「我思う」の無限後退)を自己の根拠とします。さらに、ではなぜ疑うのかと考えると、自己懐疑の無限後退の果ての無限遠点に神がいることを無意識のうちに感じ取っているから、自分という常に劣等な自己への疑いが起こるのだとして、この自己懐疑の過程全体を神の存在証明とします。この「我思う」の無限後退を可能にしているのが、それがおさまるべき隙間である空白なわけです。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。
意味解読の続報7 デカルトの「我思う故に我在り」は無駄な無意味な同語反復ではなく、自己反省の定式を表しています。つまり自己意識においては視点としての自己と対象としての自己の分離という自己の二重化が起きていなければならないので、この分裂の「我思う」と「我在り」とは別の我です。「我思う」は「我疑う」であり、自分がまやかし(錯誤)に陥っていないか自己懐疑します。これは奇異なことではなく環境が変われば視点や価値観が変わって自己変革するようなことは日常茶飯事です。この自己の吟味は際限なく続くので「我思う(疑う視点)」は常に離れ「我在り」の背後へと無限後退します。自分が間違っていることはあっても、この疑い自体は疑えませんから、デカルトはそれ(「我思う」の無限後退)を自己の根拠とします。さらに、ではなぜ疑うのかと考えると、自己懐疑の無限後退の果ての無限遠点に神がいることを無意識のうちに感じ取っているから、自分という常に劣等な自己への疑いが起こるのだとして、この自己懐疑の過程全体を神の存在証明とします。この「我思う」の無限後退を可能にしているのが、それがおさまるべき隙間である空白なわけです。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。