意味解読の続報44 完成された表現媒体(ジャンル)で形式の力が強力なものは、その形式をただ採用するだけでもサマになります。たとえば俳句は575という形式さえとれば単なる散文でも俳句らしい体裁になってしまいます。厳密には俳句(詩)でなくても形式の力でもってしまうわけです。絵画も四角いキャンバスに何事か描けばなんとなく絵っぽくはなります。さらには額縁をつければより立派な絵のように見えてしまいます。あるいは展示室に置かれれば何でも(便器でも)作品ぽく見えてしまいます。よって形式の力が強力なものは形式に頼って量産され、ますます形式の力が強力になっていきます。量産されると過去の成果のノウハウが内面化され、技巧的に練り上げられた凝った作品が多くなりますが、黎明期のような有名な作家やインパクトのある作品はどんどん見当たらなくなっていきます。そして形式だけが生き残って、只管すばらしい内容を待機するかのようになります。形式の力の本末転倒の自縄自縛で次第に身動きがとれなくなり、瑞々しい感性や溌剌とした好奇心や冒険的な創造性などが見失われ、成熟と思われたものがいつしか惰性的な腐敗に近くなって新鮮さがなくなってしまうのかもしれません。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。
意味解読の続報44 完成された表現媒体(ジャンル)で形式の力が強力なものは、その形式をただ採用するだけでもサマになります。たとえば俳句は575という形式さえとれば単なる散文でも俳句らしい体裁になってしまいます。厳密には俳句(詩)でなくても形式の力でもってしまうわけです。絵画も四角いキャンバスに何事か描けばなんとなく絵っぽくはなります。さらには額縁をつければより立派な絵のように見えてしまいます。あるいは展示室に置かれれば何でも(便器でも)作品ぽく見えてしまいます。よって形式の力が強力なものは形式に頼って量産され、ますます形式の力が強力になっていきます。量産されると過去の成果のノウハウが内面化され、技巧的に練り上げられた凝った作品が多くなりますが、黎明期のような有名な作家やインパクトのある作品はどんどん見当たらなくなっていきます。そして形式だけが生き残って、只管すばらしい内容を待機するかのようになります。形式の力の本末転倒の自縄自縛で次第に身動きがとれなくなり、瑞々しい感性や溌剌とした好奇心や冒険的な創造性などが見失われ、成熟と思われたものがいつしか惰性的な腐敗に近くなって新鮮さがなくなってしまうのかもしれません。
定形は文明を不定形は自然を象徴しています。
つまるところ自然とは、文明に抵抗してくるところのものであり、文明とは自然をコントロールすることですが、自然とはそれがままならず、それどころか文明を崩壊させてしまうものです。これまでほとんどの文明が、環境破壊の末に自然からのしっぺ返しを受けて滅んできました。人間における失敗とは、人為に対する想定外の自然の反作用のことです。
人間が発明した神という概念は、自然の中の空白(0の発明)のことであり、自然の因果連鎖を超えた非存在の無のことです。よって人間の目指すものは、自然の摂理を超えた霊魂の不滅(宗教)や、現世においては不老不死の欲望(科学)、以外にないことになります。
もし、この空白を信じるのをやめ、そこに託した希望や夢を断念してしまうと、人生の意味(物語)そのものが失われてしまうことになります。こうして人間の宿題は、未踏の空白とそこにふさわしい聖像を探す不可能な旅となります。
綿布にアクリル絵の具で描いた絵で、サイズは綿布が95×135㎝ほどです。綿布の生成り地の余白部分も作品のうちです。シリーズで50点ほどあります。