古筆(こひつ) とは、昔の人の筆跡のことで、特に平安時代から鎌倉時代にかけての能筆家の筆跡、その中でも主に和様書道の草仮名のものをいいます。
古筆の名前は、尊円親王(1298~1356)の文和元年(1352)『入木抄(じゅぼくしょう)』に「其筆仕の様は、古筆能々上覧候て可有御心得候。」とあるのが初めてだとされています。
古筆には、古筆切、懐紙、色紙、詠草、短冊などの形状があります。
「古筆切(こひつぎれ)」は、巻物、帖などの断簡のことで、ほとんどが勅撰や私撰の和歌集を能筆家が書き留めたものです。
江戸時代にはいると、平安時代から鎌倉時代の歌の帖や巻物を、分断して手鑑をつくることが始まりますが、一般にはまだ掛軸として用いるのはさほど多くなく、古筆切を掛軸に仕立てるのが盛んになるのは明治末から大正・昭和にかけての時代で、巻子や冊子の歌集などが、幅仕立に適する大きさに切断され、茶の湯で古筆切を用いることが急増したといいます。
古筆切には、「寸松庵色紙」、「継色紙」、「八幡切」、「石山切」、「高野切」などがあります。
また、広義では古人の筆跡の意であるが、書道史では、平安から鎌倉時代、伏見(ふしみ)天皇(1265―1317)のころまで、約400年間の和様の名筆に限定される。和歌集がもっとも多く、ついで漢詩文で、物語はきわめて少ない。藤原伊行(これゆき)の「ものがたりは手書(てが)かかぬ事也(なり)」(『夜鶴庭訓抄(やかくていきんしょう)』)のことばがその理由を物語る。これらはもともとは巻子本や冊子本の完全な形であったが、安土(あづち)桃山時代に勃興(ぼっこう)した茶の湯の盛行につれて、しだいに切断されていった。古筆切(こひつぎれ)とよばれるその断簡は、掛幅仕立てにされ、それまでの墨蹟(ぼくせき)や唐絵(からえ)にかわって茶掛とされるのである。要因として、茶人と和歌、連歌(れんが)など文芸とのかかわり合い、季節感を尊ぶ茶の湯に四季を詠じた和歌が適合した点などが考えられる。一方、古筆切そのものの愛好熱も高まり、人々は競って手に入れようとした。権力、財力のある者ほど多数のコレクションを誇り、なかでも豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(1568―95)は狂信的な古筆マニアであった。この古筆切の保管、そして系統的に鑑賞するために、便利な古筆手鑑(てかがみ)が考案された。手は筆跡、鑑は亀鑑(きかん)、あるいは鏡のように開けばいつでも見られるものの意。すなわち筆跡のアルバムである。厚手の紙を用いて大型の帖(じょう)をつくり、一定の配列順序に従って、収集した古筆切を貼(は)っていく。古来有名な手鑑に『翰墨城(かんぼくじょう)』(311葉、MOA美術館)、『見ぬ世の友』(229葉、個人蔵)、『藻塩草(もしおぐさ)』(242葉、京都国立博物館。以上いずれも国宝)などがある。
このように古筆切の需要が多くなるほどに、古筆は盛んに切断される。それに伴い、その古筆切の真贋(しんがん)、筆者を鑑定する作業が必要となり、その専門家が求められていく。古筆家(こひつけ)の登場である。初代は平沢弥四郎(やしろう)改め古筆了佐(りょうさ)(1572―1662)で、以後、一子相伝、「了―」の一字を襲名し、長く家業として伝えられた。豊臣秀次が与えた純金という伝説の「琴山(きんざん)」印を押した極札(きわめふだ)には、切の筆者の名とその切の書き出し、特徴などが記入された。古筆家歴代のなかでもとくに了佐の鑑識眼は鋭く、名品が多い。また、古筆切には名称が与えられたが、所蔵者の名にちなんだり(本阿弥(ほんあみ)切など)、伝来した地名(高野(こうや)切など)、切断されたとき(昭和切など)、書風の特色(針切など)、料紙の特色(香紙切など)というように、さまざまにくふうされている。伝称筆者については、今日の研究では疑わしい場合がきわめて多いが、切名とともに、数ある写本を区別する一つの方便として、国文学のうえでも甚だ有効である。たとえば、905年(延喜5)に撰進(せんしん)された『古今和歌集』は、平安時代書写の古筆としては現在33本が確認されているが、「伝紀貫之(きのつらゆき)筆 高野切」「伝藤原行成(ゆきなり)筆 古今集切」などとよべば、確実に一つの写本を特定するからである。
また、書芸術として古筆をみた場合、ことに11世紀のものには優れた筆跡が多い。美しい字形、洗練された線は、他の時代を卓越した水準の高さがある。現在の仮名書道を志す者にとって、最高の規範、永遠の理想となっている。
[尾下多美子]引用
※アイキャッチの読み
書いてある全文は(濁点なし)
むねおかのおほよりかこしより 宗丘の大頼が越より
まうてきたりけるときにものか 詣で来たりける時に物語
たりなとしはへりけるにゆきの などしはべりけるに、雪の
ふりけるをみておのかおもひこの 降りけるを見て、己が思ひこの
ゆきのことなんつもれるといひける 雪のごとなん積もれる言いける
をりによめる 折に詠める
きみかおもひゆきとつもらはたのま 君が思い雪と積もらば頼ま
れすはるよりのちはあらしとおもへは れず、春より後はあらじと思へば
かへし 返し
おほより 大頼
きみをのみおもひこしちのしらやまは 君をのみ思ひこしじ(越路)の白山は
いつかはゆきのきゆるときのある いつかは雪の消ゆる時のある
こしなるひとにつかはしける 越なる人につかはしける
つらゆき 貫之
おもひやるこしのしらねのしらねとも 思ひやる越のしらねのしらねとも
ひとよもゆめのこえぬよそなき 一夜も夢の越えぬ夜ぞなき
【内訳】
宗丘大頼(むねおかのおおより)や紀貫之らの歌です。越(今の富山県)から来た大頼が京へ来たときに語り合っていると、雪が降ってきたのを見て歌を詠みます。
詠み人の名前はありませんが、最初の歌は凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)とされています。
「あなたの思いが雪のように積もっているというのなら、春になると溶けて無くなるので、あてにはできませんね」といった内容です。なんだか恋の歌のようです。雪と越の国をキーワードにした歌のやりとりです。