十牛図の深遠な世界

十牛図の深遠な世界

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🌟牧牛を捕まえる物語に例えて、悟りに至る過程を段階的に描いた「十牛図」 「十牛図」にはいくつか種類があって、十枚じゃない牧牛図もあります。 その中で、日本に広く伝わっているのは中国の宋代の禅僧、廓庵禅師による廓庵十牛図が有名で、日本で「十牛図」といったらこの廓庵十牛図のことを指します。 ①第一図 尋牛 欲にまみれて煩悩に汚され、偽りの自分を演じているうちに本当の自分を見失ってしまいました。智慧のある人が、「お前の心は牛の形をして逃げていったぞ・・・」 と教えてくれたので、旅に出ることにします。 煩悩の草原を払いのけ、我執の山は高く、妄想の湖は深く、道は険しくて果てしなく、心牛は何処にいるのかわかりません。 そんな私をあざ笑うかのように、近くの楓の樹のセミ(雑念)が鳴いています。 ※真実の道への探求を一歩踏み出した段階。 ②第二図 見跡 心牛を見つけるためにすることは、たくさんある経典を深く理解して、正しい道理を身につけなければなりません。 書物を読んで、万物や自己は一体であることを知り、善悪と真偽を見極める智慧も身につけました。そうするとようやく、水辺や林の下にたくさんの牛の足跡を見つけました。 やっとつかんだ手がかりです。書物を読んで、禅の何たるかを頭で理解した段階。 ただ、足跡は見つけても、知識で求めようとする人が多いので、牛を本当に見ることができる人は少ないそうです。 ※足跡ばかり見ていると、横で通った本当の牛を見逃してしまうのかもしれませんね^^; ③第三図 見牛 勉強、修行の日々を送っていると、とうとう牛を発見しました。 六根(眼、耳、鼻、舌、身、意識)を鋭く働かせながらよく観察すると、その真実が見えてきます。気が付いてみれば見るもの聞くもの、ことごとくが牛だったのです。 海水が海水なのは塩分が溶けているからですが、それは目に見えません。 絵の具が絵の具なのは、膠が含まれているからですが、それは目に見えません。 心牛もただ眼で見るだけでは見えないのです。 ついに心牛の真の姿を見た段階です。 ※頭で理解できる範囲を超えて、一切は心牛ならざるものなし、という真実に気が付いたばかりの境地です。 この段階にはきちんと修行をしていないとたどり着けないのでしょう ④第四図 得牛 長い間探し求めてようやく牛を見つけ、手綱を結びつけたものの、牛は頑固でなかなか言うことを聞いてくれず、すぐに逃げようとします。野生本能がなかなか消えようとせず、なかなか手が付けられません。 それをコントロールするにはしっかり修行をして、心を引かれやすい煩悩妄想を捨て、確実に日常生活にその成果を取り入れなければなりません。 心牛との戦いは自分との戦い。 死に物狂いで飛びかかり、縄でしばりあげ、鞭できびしく戒めます。 心牛を発見しましたが、見つけることと飼いならすことはまた別のこと。 一歩一歩自分のものにしようとする段階です。 ※ここで煩悩に負けたらそのまま妄想となり、牛はまた逃げてしまいますから、今までの自分を投げ捨て、必死に修行しなければなりません。 ⑤第五図 牧牛 厳しい修行の結果、妄想を絶ち切り、煩悩を脱して、ようやく飼いならすことができました。 しかし、一度捕まえたからといって「悟った!」と油断してはなりません。 飼いならし続けるには、常に鞭を打って戒めなければなりません。 ひたすら心牛のことだけを想い、十分に飼いならした結果、牛の方から自分のところに近づいてきました。ここまできたら欲にまみれた俗世間の中にいても染まることはありません。 つまづきながらも一人歩きできるようになり、どのような事態にも笑殺できるようになりました。 ※真理と自己を一つにできた段階です。 「客観的に知っている」という段階から脱却して、真理と一体になり始めたわけです。 ここまできたら悟りの境地に一歩足を踏み入れた、という感じでしょう。 それでもまだ図は半分。 ⑥第六図 騎牛帰家 戦いは終わり、牛はすっかりなついています。鞭も縄も不要で、もはや一念の邪心もありません。安らかな境地の中、心牛の背中に乗って、ゆらりゆらりとゆられ、笛を吹いたり、歌いながら家に帰ります。 ※修道の極みを尽くし、無心になった境地です。 自分と牛、つまり意識と無意識が完全に一体になったわけです ⑦第七図 忘牛存人 真理はただ一つ。二つあるわけがありません。 ※心牛は私の体の中に戻ってきたので、牛の姿はもうありません。 大悟(悟りを開くこと)したので、姿かたちは変わらなくても、昔の私ではありません。 迷いもなければ不安もありません。 もはや心牛を捕まえるための鞭も手綱も不要になりました。 これからは何もせず、静かに自然を楽しみ、何物にも関わらず、自由無心に遊ぶことにしよう。 家に帰ってきて、主人公はもはや牛のことも忘れてしまいます。 つまり、もう悟りを開いてしまったので、「悟りを開こう」とか、そういう考えがなくなって、自然な状態になったわけです ⑧第八図 人牛倶忘 大悟したことにこだわると慢心してしまいます。 そのこだわりさえも捨てなければなりません。 煩悩からも大悟からも脱却し、無に徹します。 一切のこだわりを捨てたら、鞭も縄も心牛も私さえも全てが消え去り、無となりました。 ※仏の教えは「空」の哲学。 「有」と「無」は対立するものではなく、唯一真実のみがあります。 それこそが仏の教えなのです。 これこそ禅が体験を通して求める究極の境地です 中には何も書かれていませんが、おそらく般若心経の「空」の思想を表しているのだと思います。 ちなみに禅では、悟りの世界を「円」で表します。 それに対して煩悩の世界を四角で表します。 禅寺にいくとたまに、「悟りの間」といって丸い窓がありますが、それですね^^ 十牛図も全部円の中に絵が描かれているのですが、それも関係しているのでしょうね。 悟りの境地の頂点にまで達したが…まだ第八図。 ⑨第九図 返本還源 「迷い」と「悟り」の間での葛藤を克服してみると、そもそも一塵のけがれもなかったことがわかりました。 万物は生まれてきては滅び、無となりますが、無もまた「空」の一部でしかありません。 そしてまた変化して無から万物が生まれてきます。 なので何も修行も必要もなく、全てを任せてあるがままに受け入れれば良いのです。 山は青く、水は緑を養います。 ※あるがままに受け入れれば良いのです。 何もなくなっても、現実はあるということです。 悟りの境地にいても、愚人と同じ生活は変わりません。 なので主人公は、悟りを求めていた頃の世界に戻ってきたんです。 ⑩第十図 入鄽垂手 この世に生まれた役割は、人によって異なります。 ※その役割は、仏に聞いてもわからないので、自分で見つけるしかないのです。 なので、先賢たちのやり方とは違うかもしれないが、自分の役割を果たすことにします。 やることは、人々が暮らす世界に入っていき、交わることで衆生に救いの手を伸ばすこと。 山を下りて、街に入り、呑んだくれの仲間と酒を飲みかわします。 ただ生きているというだけで嬉しい、この喜びを分かち合いたいのです。 酒を酌み交わしながら笑い転げ、悲しんでいる人がいれば一緒に悲しみます。 笑って泣いたあとは、怪しい足取りで杖にすがって再び山に帰ります。 ただ、それだけで交わって私に感化した人々は、不思議と救われた気持ちになっていったのです。

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茶道具作家プロデュース(米山堂オリジナル)

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