松尾芭蕉は、江戸元禄期の俳人です。元禄時代は江戸幕府ができてから約80年ぐらい経った頃で、経済が発展し「江戸」が大都市になりつつあった時代です。
武士のサラリーマン化が進んだ時代でもありました。松尾芭蕉は中流階級(下級武士)の家に生まれます。
「芭蕉」の本名は、「松尾宗房(むねふさ)」といいました。
松尾芭蕉は、伊賀国(現在の三重県)で無足人と呼ばれた郷士の農家・松尾与左衛門の次男として生まれ、2歳年上の藤堂良忠に仕えました。
ところが、藤堂良忠は24歳の若さで急病で亡くなってしまったのです。芭蕉は藤堂良忠のことを主君として、また文学仲間としてとても敬愛していたので、その死に大きなショックを受けました。
そして、武士の身分を捨てて江戸へ出て武士や商人に俳句を教えながら、俳諧師として生きる道を選んだのです。
本名:松尾宗房(むねふさ)
出身:伊賀国上野(三重県)
松尾家は準武士という待遇の農民で、芭蕉は6人兄妹の次男でした。
12歳の時に父が亡くなり、18歳で藤堂藩の侍大将の嫡子・良忠に料理人として仕えることになりました。
藤堂藩は藤堂高虎を藩祖とする藩で、文芸・芸術を重んじる藩風がありました。芭蕉は藤堂良忠ととてもよく気が合って、彼から俳諧を習って詠み始めました。
22歳のとき、仕えていた良忠が病死してしまいます。これが、俳句にのめり込んでいく始めの転機になったのでした。
松尾芭蕉にとって主君であり師でもあった良忠は、かけがえのない人でした。その主君の死にかなりのショックを受け、その悲しみをまぎらわせるように、芭蕉はますます俳諧に夢中になりました。一時期、京都で俳諧の勉強を積んだとも伝わります。
33歳ごろ、俳諧師の「免許皆伝」となり、俳句を教えられる先生(宗匠)の資格を得ました。
そして、宗匠(そうしょう)として、江戸俳壇の中心地・日本橋に出て俳諧塾を開いたのでした。
でも、俳諧の先生になって教室(庵)を開いても生活していくのは難しく、なんと4年ほどの間、神田上水の水道工事の事務の祖事を副業でしていました。今の学習塾の先生の働き方みたいですね。なかなかシビアです。
江戸に来てみると、俳壇では「滑稽の機知」や」華やかさ」を競うつまらない句ばかりが流行っていました。
これは、芭蕉が目指していた「わびさび」の世界とは全く異なるものです。
芭蕉は静寂の中にある自然の美や、李白・杜甫ら漢詩人の孤高、魂の救済などを詠み込んだ世界を作り出したいと考えていました。
また、当時の俳壇は、俳諧をお金儲けや名声を得るための手段として考える風潮がありました。俳諧の宗匠たちは、弟子の数を競い合って俳諧を商売の道具のように扱っていたのです。
そんな状況を知った芭蕉は、自分の伝えたい俳諧はそんなもんじゃないと失望します。
そうして、彼は36歳(1680年)のとき、江戸の中心部からずっと離れた隅田川東岸の深川に草庵を結んでこもったのです。
当時の宗匠たちは、江戸の一等地・日本橋に庵を開くことこそ勝者という価値観だったのですが(商売人かという感じですね)、芭蕉の弟子たちは意外にも深川への移転を喜びました。
弟子たちもまた、芭蕉と同じような想いをもっていたのです。
彼らは一致団結して師匠の生活を支援します。その草庵の庭に「バショウ」を一株植えたところ、見事な葉がついて「バショウの家」と評判になったそうです。
そして、弟子たちがそこを「芭蕉庵」と呼び始め、芭蕉は自分の「号」を「芭蕉(はせを)」としたといわれています。(異説あり)
1682年、年末に「江戸の大火(八百屋お七の事件)」が起こり、芭蕉庵は全焼してしまいました。(翌年弟子たちが皆で再建してます)
40歳(1684年)のとき、亡くなった母親の墓参り目的に、奈良、京都、名古屋、木曽などを半年間、旅しました。この旅の紀行文が『野ざらし紀行』です。
そうして、10/12に亡くなります。10/12は芭蕉忌となります。
画像:『ウェキペディア引用』 本文:『芭蕉俳句全集』より引用