かの牛若丸の…

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八幡の信仰では縁起物とされる鳩たちは、表参道の石畳をまっすぐに飛びぬけて、三の鳥居からみて正面に位置する舞殿で羽根を下しました。 かつて美しき白拍子が舞い踊ったエピソードがあります。 源義経の愛妾であった静御前です。 当時、源頼朝・政子夫婦ばかりでなく、たくさんの御家人や女御たちが見守ったといいます。 『吉野山 峰の白雪ふみ分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき しづやしづ   しづのをだまき 繰り返し 昔を今になすよしもがな』 京都ではよく知られた白拍子であった静御前は、愛する義経のことを歌にして踊ったのです。 今回は、源頼朝の愛妾である静御前をご紹介したいと思います。 白拍子とは女性の職業のひとつとして存在していました。 美しい女性が男装をして、今様を謡いながら舞い踊るのです。言い方を変えれば芸者です。 芸能活動が盛んであった都では、売れっ子白拍子はまさしく飛ぶ鳥を落とす勢いのトップスターでした。 また、彼女たちは芸能活動の傍ら、ホステスのように男性を相手にすることも少なくありませんでした。 白拍子の身分は低いものですが、貴族の屋敷に出入りすることもあり、そこで見初められるケースもありました。 静御前の場合も、源義経が見初めてのものだったといわれています。 このふたりの出会いはなかなかドラマチックなものでした。 都にある神泉苑に100人の白拍子が雨乞いのために踊りました。 このうち、99人が雨を降らせることができませんでした。 しかし、最後のひとりであった静御前が躍ると、瞬く間に雨が降り出しました。 これを見物していた源頼朝が静御前を見初めたといいます。 鎌倉の源頼朝は弟である義経のことを快く思っていませんでした。 朝廷から冠位を授かったから、これまでの活躍で支持者が増えていたからなど、いくつかの理由があげられます。 そのため、源平合戦で目覚ましい活躍をしたのにも関わらず、源義経は追われる立場となってしまいました。 このとき、途中まで同行していた静御前でしたが、都へと戻るようにいわれて今生の別れを遂げました。 その後、源頼朝に見つかった静御前は、鎌倉まで送られました。 取り調べでは義経の居場所をまったく口にしたかったといいます。 そんな静御前がトップ白拍子ということを知って、頼朝の妻である政子が舞をみたいと言い出しました。 静御前は見事な舞とともに歌いました。 内容は義経を恋い慕うものでした。 倭文(しず)を織る麻糸を巻き取ったおだ巻きから繰り出されるのと同じように、昔を今にするような方法があったとしたら、吉野山の峰にて白雪を踏み分け姿が見えなくなった義経様が恋しいという、鎌倉側にとっては反逆者である義経を恋い慕う静御前の歌に、源頼朝が激怒するのも当然かもしれません。 静御前も覚悟していたに違いないでしょう。 しかし政子が、「同じ立場だったら頼朝を恋い慕う歌を口にしたはずだ」となだめました。 すると、感心をした頼朝は打って変わって静御前に褒美まで与えたといいます。 ただ、静御前のお腹にいた義経の赤ん坊はそうはいきませんでした。 もし、産まれたこどもが男児なら命はない、もし女児なら命を助けると頼朝はいったのです。 ★産声をあげたのは『男の子』でした。 そのため、産まれてすぐに由比ガ浜へと沈められました。 それから静御前がどのような人生を送ったのかはわかりません。 憐れんだ政子がたくさんの貴重品を持たせて都へ帰らせたとも、由比ガ浜でこどもを追って入水したともいわれています。 鶴岡八幡宮から由比ガ浜までは参道によって一直線に結ばれています。 もしかしたら、静御前も我が子のもとへと歩いたのかもしれません。 このエピソードは有名です。諸説あります。静御前は生きていてモンゴルに義経を見送って代わりに弁慶と共に討ち死にしたとも… 写真は珍しい静御前の御朱印です。 悲しい兄弟での権力争いです。

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茶道具作家プロデュース(米山堂オリジナル)

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